こんにちは。カウンセリングサービスの青井あずさです。
いつもありがとうございます。
私は自己嫌悪に関してはかなり研究をしてきた方です。
カウンセリングの得意ジャンルに「自分を好きになる」をあげているくらいですから、結構やってきた方だと思います。
そんな自己嫌悪に詳しい私ですら、かなわない自己嫌悪の権威がいます。
私の母です。
今日は「母の自己嫌悪を受け継いだ私、でも受け継いでいたのは実はそこではなかった」というお話です。
私の母はどんな人かというのを説明するときに、「マッドマックスに出てくる人」と言っていたことがあります。
「マッドマックス」って荒野の中のデストピア映画なんですが、それくらい母の心は荒涼としていたというイメージ。
常に荒々しくて暴力的でヒステリック。話しかければ怒鳴られる。たまに優しい時は極端に猫撫で声になって、そこが余計に気持ち悪い。
そんな母が、わたしはとても苦手でした。
そのせいか、過剰な感情表現をする年上の女性というものも苦手。
というか、女性全般が苦手。というか、人と親しくなるのが苦手。
だから、感情が激しくて怒ったり怒鳴ったり泣いたりする自分も嫌い。
怒っている時の自分が大嫌い、だって怒鳴りまくっている自分は、かつて子供の私に怒鳴っていた母とおんなじ怒鳴り方だから。
はしゃいでいる時の自分も嫌い、だってはしゃいでいる時の自分は、母の空気の読めないとんちんかんな笑い声を思い出すから。
怒鳴っているときも、笑っている時も、感情を出している時の自分は母みたいで、死にたいほどに嫌だ。
自分の母の嫌なところは、そっくりそのまま自分の嫌なところ。
そう思っていたのです。
以前の私は、母親に苦手意識をもっていたことで、弊害がありました。
人間関係が続いていかないという悩みです。
何かトラブルがあったときに、相手に「こうあって欲しい」という期待が大きくて、それが裏切られたときのショックに耐えられないのです。
だから相手の間違いや失敗が許せなくて、私から関係を切ってしまう。
でもそれだと、やはり悲しいんですよね。
同じことがあったとしても、他の人は「ドンマイ!」で終わることが、自分にしたら許せなくて関係を切ってしまうなんて。
そして、かつては仲の良かった人を嫌ったり許さないと思うのは、自分にとっても辛いし悲しいし、寂しいかったのです。
あとやっぱり、自分の感情表現が好きではないということも、自分が嫌いだということも生きにくくて辛い。
私はそんな自分を変えるために、母を理解するのをやってみよう、と思い立ったわけです。
なぜ母親かと言いますとね、人の心には投影という仕組みがありまして、投影というの字の通り、自分が思っていることを外に投げて映し出すこと。
これは言い換えれば、自分が見ている世界は全て自分が作り出している、ということです。
私に中には「母親=嫌い!」という投影フィルムがあります。
映写機にこのフィルムをかけると…
「私が母親を嫌いな分、母親も私を嫌っている」という映像を外から探してきて、自分の内面と一致させようとするのです。
そして母親のイメージは私の中の「大人の女性、年上の女性へのイメージ」と繋がりますから、「大人の女性に嫌われる、だから私も大人の女性が嫌い」という映画を上映するわけです。
要は私の中の母の投影を引き戻して、人への苦手意識をなくすために、母へのことを理解してみたいと思ったのです。
母の事を理解するということは、私にとっては「母の自己嫌悪」を理解するということに他なりません。
でも、私にとっても母の嫌いなところイコール自分の嫌いなところなので、それは自分の自己嫌悪を理解するという険しい道のりなわけで。
一番葛藤したのは、「自己嫌悪はセクシャリティを隠している」ということでした。
セクシャリティとは性的な魅力、生きる力、その人らしさのエネルギーの事。
自己嫌悪の大きい人ほど、実は魅力的な要素を隠し持っているのだといえるのです。
私は母のことを「自分からマッドマックスの世界に身を投じている人」だと思っていたのです。
女らしさや優しさを良しとしない人だと思っていたのです。
マッドマックスが好きだから、女性らしさに興味がないのだと思っていたのです。
母は好きで選んだんだから、そこに葛藤はないと思っていたのに…
でも、葛藤がなかったら、夫や子供に向かってあんな怒り方はしない。
自分らしく生きることができていたならば、あんな鋭い言葉や暴力をつかわなくてもいい。
好きでしているのなら、あんなに自分をひどくは扱わないだろう。
おそらく母は自己嫌悪によって自分の魅力を抑え込み、そのことによって本来の自分らしい自分を生きられずに苦しかったのかもしれない。
私は心理学を学び始めていたので、本来の自分を生きられないということは、どれほど辛くて苦しいことなのかを知っていっていたのです。
母は自分らしく生きることを自分に許可しなかったのかもしれない。母も苦しかったのかもしれない。
自己嫌悪ができるきっかけとして一番大きなものは、「誰かの期待に応えられなかった自分を責めること」だと言われています。
母の自己嫌悪は多分、自分の親を助けたかったのにできなかったということに由来しているのかなと思いました。
東北の貧しい農家の出身の母。だから女の子の自分を責めたのかもしれません。
そうやって自分の女性としての魅力を封印してしまったのかもしれない、本当は隠さなきゃいけないぐらいの魅力をもつ感情豊かで情熱的な女性なのに。
女性らしい魅力を沢山もってきた女性なのに。
そのように考えられたときに、私は気付きました。
母はそれでも父と結婚して、私を産み育ててくれた。
女性としての自分を責めていた母は、それでも私を愛そうとしてくれたことに尊敬を感じるようになったのです。
女性である自分を責めながら、葛藤しながらでも私を育ててくれた母を、素晴らしい女性だと思うようになったのです。
葛藤しつつも私を愛そうとしてくれたことは、母の愛に他ならない、と感じられたのです。
そう考えるようになってからは、私は母への葛藤も、自分の自己嫌悪もだいぶ薄れてきたように思います。
自分が母を尊敬し認めることができたのは、とっても嬉しいことでした。
それはかつての「母に愛してほしかった私」が欲しかったようなものではないけれども。
私の中に自己嫌悪の分だけ、魅力が隠れていることを認められたのです。
それは母から受け継いだ女性性のエネルギー。
それを育てて自分で愛していくことができる。
そうやって、母から受け継いだ女性性を私が育てて、また母に返したっていい。
「お母さんから受け継いだこの感性を生ることができて、私は幸せだよ、女性として生まれてきてうれしいよ」と母と分かち合うことができる。
そう思えた自分が、ものすごくうれしいのです。

そのように考えられるようになってからは、人間関係の苦手をあまりかんじないようになっていきました。
揉めたとしても、相手のタイミングを待つことができるようになったりして、トラブル自体があまりなくなっていきました。
そして一番の変化は、女性の成熟した魅力に気付くようになったこと。
母の事例から、自己嫌悪が隠している魅力に気付くことができたせいで、人の隠された魅力に気付いていくのが大好きになりました。
表立っていなくても、もう見えてしまって!どうしてもお伝えしたくなってしまうのです。
だから私は、女性が自分らしく生きていくことのサポートがしたいと思っています。
その方が自分らしく生きていくことは、その方が生きる世界への貢献です。
どうか自分の特性や良さや魅力を活かして、生き生きと輝いてほしい。
問題から魅力が見えることも多々ありますから、どうぞ気負わず。
良かったらお話を聞かせてくださいね。